Give Peace A Chance [kyushu]
西海パールライン
新西海橋を渡って
お天気がよかったら
この景色
絶対綺麗だろうなぁ...って
そんなこと思いながら長崎市内...
雨の平和記念公園
長崎へは何度も来ていたけれど
広島の原爆ドームへは何度か行ったけれど
長崎で戦争...原爆のことに触れたのはこの日が初めてでした
平和記念象は神の愛と仏の慈悲を象徴
垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威
水平に伸ばした左手は平和
横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさ
立てた足は原爆の恐怖
軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っているそうです
「長崎刑務所浦上刑務支所跡」
「長崎刑務所浦上刑務支所」は爆心地にもっとも近い公共の建物でした
1945年8月9日午前11時02分
一発のプルトニウム型原子爆弾のさく裂により
職員18名官舎居住者35名収容者81名計134名全員が即死した
周囲の高さ4m 厚さ0.25mの鉄筋コンクリート塀はほとんど根本から倒壊し
木造庁舎も炊事場の煙突1本を残して全壊したそうです
平和の鐘
平和記念公園の中には
いろんな国から贈られた平和を願う像がありました
平和の泉
1984年8月9日 原爆のために体内まで焼けただれた被爆者は
「水を」・「水を」とうめき叫びながら死んでいきました
その傷ましい霊に水を捧げて冥福を祈りあわせて世界恒久平和を祈念するため
核兵器禁止世界平和建設国民と長崎市は
全国からの浄財を基としてここに「平和の泉」を建設しました
今日ここに来て下さいましたあなたに
冥福を祈り 平和を祈念していただければ誠に幸いと存じます
<長崎市長>
1945年8月9日午前11時02分
この碑の上空およそ500メートルで原子爆弾が炸裂したそうです
下の川(爆心地付近)の惨状
この下の川が流れる丸山町(向かい側)は1945年8月9日午前11時02分
人類史上2番目の原子爆弾が炸裂した中心地
当時この街には約300世帯1,860人余の一般市民が生活していました
松山町の上空約500mで爆発した原子爆弾はその後巨大な火の球となり
それより生じた数百万度の熱線と強大な爆圧はあらゆるものを破壊し尽くし汚染した
町内にいた者は 偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死した
壊滅した松山町は想像に絶する焦熱地獄と化し
惨禍の跡は黒こげの死体が累々と荒廃した焦土に横たわり
まさに地獄の終えんを思わせるものであった
また 下の川上流の家屋解体作業に派遣されていた
県立長崎工業学校の先生及び生徒も、ほとんど爆死した
この地で被爆死された方々のご冥福をお祈りし
二度と再びこの惨禍が地球上に繰り返されないことを願って、この地に碑を設置するものである
<1986年8月 長崎市(長崎国際文化会館)>
被爆当時の地層...
被爆50周年記念事業碑(母子像)
「浦上天主堂遺壁」
爆心地から北東へ約500mの小高い丘にあった「浦上天主堂」は1895年から建築に着手し
信徒たちの献金と労働奉仕により1914年に献堂式を挙げるにいたった
そして1925年に正面の双塔が完成し大小の鐘が吊された
東洋一の壮大さを誇った天主堂であったが1945年8月9日午前11時2分
原子爆弾のさく裂により破壊されわずかにまわりの壁を残すのみとなった
この側壁は聖堂の南側の一部で1958年に新しい天主堂建設のためこの地に移築されたものであり
壁上の石像はザベリオと使徒である
しかし風雨にさらされて傷みが進んだため安全性を考慮して
現在の形状のまま内部及び表面の補強を行った
長崎市は原爆で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし
二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願ってこの銘板を設置する
<2001年3月 長崎市(原爆資料館)>
平和を祈る子の像
被爆20周年に長崎平和の折鶴会が国内外からの募金で
人類永遠の平和を象徴する像として1967年に建てられました
この像の台座には世界15の国と国内の各県の石がはめ込まれています
碑文
原子雲の下で母さんにすがって泣いた
ナガサキの子供の悲しみを二度とくりかえさないように
大砲の音が二度とひびかないように
世界の子供のうえにいつも
明るく太陽が輝いていますように
いろんな碑文読みながら
戦争があったこと 忘れてしまっていることが多いけど
知らないことの方が多いけれど
少しづつでもその事実をちゃんと知って
今の平和な日本に感謝することと
犠牲になられた方々のご冥福を祈る時間持たなきゃって
2009年8月15日 64回目の終戦の日...
宇宙から見るとほんの小さなひとつの星でしかない地球の中で
全ての人が平和で幸せに暮らせる日がくることを祈ります